想い・メッセージ

体が不自由になり34年。難病・障害・車いすの当事者として、
何度も社会のバリアに直面し「なんで自分だけ」という思いをしてきました。
夢も目標も持てない絶望の中にいましたが、たくさんの人の支えで、不可能と思えた夢を叶えることができました。
しかし、社会には 声も上げられない、家から出ることも大変、一歩踏み出す勇気を持てない人たちがいます。
永瀬充だからこそ、皆さんの声となり、目となり、足となり
『誰ひとり取り残さない社会を』をつくります。
3月に決意し、7月1日にSNSで出馬公表
2ヶ月足らずの準備で無謀とも言える挑戦でしたが、26,527名の方々に「永瀬充」と書いていただき、感謝と共に多くの方の期待や夢をいただいたと感じます
選挙期間中、SNSやリアルにお会いし、応援メッセージやコメント、シェアなどをいただきとても嬉しかったです
お一人おひとり返信ができず、大変申し訳なかったですが、全てのお気持ちは私に伝わっていました
今回の結果は、私の準備不足によるものです
想いだけで突っ込みましたが、選挙はそんなに甘いものではないと痛感しました
が、同時に私の想いや主張に共感していただく声も多く、挑戦する意義は大きいと感じました
私の人生、常に困難への挑戦の連続です
今回の結果は、まだまだ私はその立場に相応しくなく、その前にやるべきことがあると教えてくれました
次の挑戦は約1年半後
今日からスタートです
「誰ひとり取り残さない社会を」永瀬充らしくコツコツと一歩一歩進んでいきます
これからたくさんの方にお会いし、話を聞いていきたいです
本当にありがとうございました
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やらない後悔より、やって苦労
カナダ留学や転職など、節目節目で人生を大きく変えるタイミングがありました。
挑戦したい気持ちと、必ずしも挑戦が成功するとも限らない不安。
現状でも十分満足できる状態であっても、それ以上の未知の可能性を見てみたい。
挑戦することで苦労することもありましたが、自分で選んで結審した道は全く後悔はありません。
常に挑戦する気持ちを持ち続けています。
空白の4年間
高校1年生で10万人に一人の難病が発症し、手足が不自由になり、大好きなバスケも体育の授業もスキー授業もできなくなって下を向いていた日々。
当時はパラスポーツの情報は全くなく、夢も目標もその日することもなく、人生を諦めただ時間だけが過ぎていた。
そんな暗闇に光を与えてくれたのはパラスポーツでした。
楽しく・強く・カッコよく
長くホッケーを続けることができたのは、好きで楽しかったから。体を動かせない4年間があったからこそ、スポーツができる喜びは大きい。試合に出るからには勝って、いちばんを目指す。
そして、カッコよくプレーする。それが私のモットーです。
不可能の証明(クライミングに挑戦)
クライミングを見学しに行ったとき、体験してみないか誘われたけど、私の障害がある手足では無理と断った。
家に帰ってから、モヤモヤした気持ちが湧いてきた。なんで挑戦もしないのに諦めたのか後悔した。
やってできなければそれでいい。不可能の証明も挑戦しないとできない。
数か月後、壁に向かい合った。手をかけ、足をかけ何度も挑戦した。周りの応援とサポートを受け、3歩登ることができた。小さな3歩だったが、不可能ではない証明ができた。3歩登れたのであれば、次は4歩登れるかもしれない。
そうやって私の人生は一歩ずつ進んできた。

スキー授業
高校2年生の冬。スキー授業があった。小学生の頃はスキーは大好きでシーズン券で毎日のように滑っていた。しかし、もうできない。学校に行くと何台もバスが並び、スキーウェアでスキーを持った同級生たち。
私だけ制服だった。静かなロッジの片隅で一人、先生から渡された課題に向かう。昼休みになると急に騒がしくなり、笑顔の高校生で溢れかえる。昼休みが終わりゲレンデに向かう同級生たちの背中を見て、また一人になる。
私がパラスポーツの普及に取り組む原点だ。こんな思いを誰にもさせたくない。
障害がある子供のスキー授業を取材し、記事も書いた。時代は変わり、様々な人の協力で旭川や札幌では車いすでもスキー授業に参加できるようになった。どんな体であろうと、みんなと一緒にスポーツを楽しめるのを当たり前にする。
バリアフリー・アクセシビリティ・社会から排除される気持ち

私は手足に障害があるため車いすで移動したり、杖(ロフストランドクラッチ)を使って歩く。
その視点で社会を見ると、残念ながらまだまだバリアはある。
物理的なバリアだけではなく、人の内側にもバリアがある。多様性や共生社会という言葉は飛び交うが、他人事賛成で自分事反対も多い今の社会。
目に見えない生きづらさでバリアを感じている人も多い。
私のこれまでの経験を活かし、誰もが生きやすい社会にしたい。
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